(聞き手)
発災時はどのような状況だったのでしょうか。
(佐藤様)
午前中は多賀城中学校の卒業式に出席し、午後から仙台市の高砂
市民センターで、趣味のコーラスの集まりに行き、会が終わって、4名で高砂駅のホームにいた所で震災に遭いました。
地震が来て大きく揺れ、座っていた人は椅子から投げ出されて転んでしまい、ホームの脇にあった電柱も揺れていました。しばらく収まるのを待っていましたが何度も余震が続きました。駅員さんに、仙石線の電車が止まってしまったので外に出るようにと言われ、歩いて多賀城まで戻る事にしました。
中野栄駅を通り過ぎた頃、津波が来ていると言われて、見てみたら、こちらに水が上がってくるような状態でした。
そこで近くの建物に避難させてもらいました。電気も消えていたのでローソクで過ごし、夜9時ごろにやっと家族と連絡がつき、迎えに来てもらいました。
(聞き手)
印象に残っていることはありますか。
(佐藤様)
九死に一生を得たというような方もいて、中野栄で仕事中に津波が来て流されそうになり、ガソリンスタンドの屋根に上がり一晩過ごしたという方や、マンションに逃げ込んで助かったという人、他には七ケ浜から山の方へ逃げて利府の小学校で過ごしたという人がいました。
様々なお話を聞いた事が印象に残っています。
(聞き手)
看護師として
ボランティアをしていた時のお話をお聞かせください。
(佐藤様)
震災後、
民生委員として社会福祉協議会に集まった時、
看護師の
ボランティアに登録しました。3月18日に社会福祉協議会から
看護師として、デイサービス施設に応援に行ってほしいという話を受けました。
そこには、多賀城小学校や多賀城中学校などの体育館に避難していた方々がいらっしゃいました。
私は9時から15時まで毎日出勤していました。
最初は6名の方がいました。病院で治療が必要な方、糖尿病や高血圧の方、床ずれを起こしている方、自宅療養をしながら慢性呼吸器不全症で家族が付き添っている方もいて、酸素ボンベを付けていました。
事情を色々聞いてみると、被災された方が多く、ある方は単身でアパートに住んでいて、津波で流されて、行く所がなくて避難所に行っていたそうです。
(聞き手)
何名で看護に当たっていたのでしょうか。
(佐藤様)
最初は私1人で6名の方を見ていました。私は自前の血圧計と聴診器で血圧測定や体温・脈拍などのバイタルを取り、症状などを毎日記録していました。日中は施設のヘルパースタッフの方が2名いて、物資の調達や食事のお世話をしてもらっていました。
当直も施設のスタッフが交替でやってくれました。新規の人も入って来て、最後のほうは11人になりました。後半から大和町のグループホームで引き受けしてもらう事になり、4名の方は途中で移動しました。40度の熱が出て、肺炎を心配して救急車で病院に送ったり、認知症の方や帰る場所が無い方が残りました。
仕事が大変なので社会福祉協議会に手伝いに来られる方がいないか聞いたのですが、難しいとの事だったので、私の同級生や助産師をしている人に声を掛けて2、3回来て頂きました。
友人が来てくれた日は休ませてもらい、自宅に3家族が同居していましたので、家の仕事をしておりました。
施設の利用者が戻ってきて、4月5日から事業再開するまで、そこで
ボランティアを続けていました。実質、15日間通ったことになります。
(聞き手)
今後の課題はありますか。
(佐藤様)
いつ震災が起きるかわからないので、
看護師の
ボランティアを日頃から募集しておく事が大切なのではないかと思います。
市に住民検診の際の
看護師登録をしている方は結構いますし、家庭に入っている方でも
看護師の人がいると思うので、災害の時すぐに動ける体制を整えていただきたいと思います。
医学医療は日進月歩で発展してきているので、新しい技術や知識を持った人の配置が出来ればいいと思います。
また、
ボランティアで県外や近くの病院から医師の派遣がありましたが、情報の交換も出来れば良いと感じました。